…真っ暗だ
…何も見えない
…ここはどこだ

…そうだ、私は確かサンプル採集のために結界のそばにある小高い丘に上ったんだった…そして…そうだ、確か崖の淵の方に生えていたシトロホリスを採ろうとして…足を滑らせたんだった…

…ということは…

ここはあの世なのか?
そうなのか…そうに違いない…

真っ暗で、じめじめしていて、寒い…
体を動かそうにも足が全く動かない…

そうか…俺は死んだのか…


『握手』 箱崎藍之介


「んっ…」

ネロは自分の顔に何かが当たっているのに気づいて目を覚ました。先ほどまでどこか真っ暗で、じめじめしていて、寒い所にいたような気がする。しかしながら、今はどこかの洞窟と思しき場所の岩の隙間から日光が漏れ出ていてうっすらと明るい。首を動かして辺りを見回そうとすると、上半身に鋭い、あるいは鈍い無数の痛みが襲った。
…と、ネロの視界に人影が姿を現した。大きな茶色がかった瞳、それに小さめの鼻と口…そこにあったのは、自分よりおそらく10ほど年が下だと思われる少年のまだまだ丸みの残るあどけない顔だった。しかしながら、明かりの中に映ったその頭には、しっかりと2つの獣の耳があった。おそらくこの少年はハーフなのだろう。
ネロはその少年としばらく見つめあっていたが、しばらくして少年がその両手に何かを抱えていることに気づいた。ピントを合わせてよく見てみると、それは古ぼけた金属製のボウルのようなもので、少年はそれを傍らに置いてネロの方へ接近してきた。ネロは何かされるのではないかと覚悟を決め、目を固くつぶったが、少年はネロの背中と首にゆっくりと腕をまわして、最大限に気を使っている様子でゆっくりとネロを起き上がらせた。そばに置いてあった木箱のようなものを背もたれにしてネロを座らせ、先ほどのボウルをネロに手渡した。ボウルは水で満たされており、少年は首を縦に振った。ネロは物言わぬ少年が自分に「飲め」と促しているとなんとなく分かったので、一気にそれを飲んだ。乾ききっていた喉に刺さるような冷たい冷たい水のおかげで、ネロの意識はさらにクリアなものになった。…と、ふとネロは自分の足に何かが巻きつけてあるのに気づいた。それは何かの草の葉を足の腫れている部分に沿って並べ、蔓のようなもので巻きつけた何か。ネロはそれを注意深く観察して、そして驚いた。それは紛れもなく、自分が取ろうとして崖から滑り落ちる原因となったシトロホリスそのものだったのである。何でこんなもの…と思ったが、そう言えば何かの本に「シトロホリスは湿布することで、切り傷あるいは打ち身、ねんざなどに効果がある」と書いてあったのを思い出した。つまりこれは、理にかなった立派な治療なのである。植物学者の立場としては、希少なシトロホリスを惜しげもなくこのような形で使うのはいかがなものかと思いはしたが、それよりも何よりも今は自分が回復しなければならないので、この治療に感謝した。

先ほどから少年はネロの方を見て笑ってばかりいる。その様子から、ネロはこの水を持ってきてくれたハーフの少年が自分を助けてくれたのだと確信した。ネロは痛む右手を差し出しながら、「助けてくれてありがとう…私はネロ…この世界の植物を研究している。」しかしながらそれを聞いても、差し出されている右手を見ても少年の方は何のアクションも示さない。その様子を不思議に思ったネロは、「さぁ…握手だ…握手」そう言って、右手を少年の方に差し出し、少年の右手を握った。少年はアクセントも抑揚も子音も母音も何もかもほとんど曖昧な様子で「ア…ク…シュ…」と言った。…何かがおかしい。そう思ってネロは矢継ぎ早に質問をした。

「名前は何ですか?」
「あなたはどうしてここにいるんですか?」
「私はどうなったんですか?」
「今日の天気はなんですか?」
「昨日の夜何を食べましたか?」

…などのごく簡単な質問の連続だったのだが、少年は相変わらずの屈託のない笑顔を見せるばかりで、一つとして質問に答えなかった。そして、研究者であり頭の回転が早いネロはすぐに気づいた。


…この少年は言葉を知らないのだ…と。


少年はネロを手厚く看病した。水を汲み、薬草の類で傷の手当てをし、昼には木の実を採り、夜には焚き火で魚を焼き…そうしているうちに、ネロの方も少年に礼をしたい…しなくてはならない気分になってきた。そこで、ネロの方は少年が手当てをしてくれている際に手で触っている部位の名前を「ひざ」「ほお」「かた」といった、出来るだけ簡単な単語で教え始めたのだった。ネロは正直なところ半信半疑であった。ハーフの子に言葉を理解しろと言って簡単にできるほどの知能があるものかどうか…全く持って分からずにいた。…だが、そのネロの心配は杞憂に終わる。それどころか、ネロはその少年の飲み込み、記憶、理解の早さに驚かされてしまったのだ。少年は3日のうちに、身体のほとんどの部位の名前を覚えてしまったのだ。しかも、よほど知識欲が高いと見えて、ネロに身振り手振りで自分が名前を知りたいモノを伝え、「き」「あめ」「ほし」などの名詞を覚えていった。こうなってくると、ネロの方も楽しくなって次から次にさまざまな言葉を教えた。名詞だけでなく、簡単な形容詞や、文法などを教え、語彙は少ないものの、異国の人が話すくらいのかなり稚拙でカタコトな会話ならできるようになっていた。そして、彼が一番最初に覚えた単語である「アクシュ」が、二人の間でのあいさつ代わりになっていた。

ネロの怪我がほとんど治りかかっていて、まだ立ち上がるにはフラフラするが壁伝いに体を支えてどうにか立ち上がれるくらいにまで回復していたある日のことだった。いつものように、「ボクキノミトテクル…イテキマス」と言って少年はネロの手を両手でぎゅっと握ってから洞窟を出て行った。ネロは体を支えて近くの木箱の上に座った。…ネロが少年にであってからもう30日近く経とうとしている。ネロは閉鎖された空間では時の流れなんて全く感じていなかったが、少年と出会った日から30日経とうとしているということは、ネロが行方をくらませてから30日経とうとしているということでもある。これだけ長い時間いなくなっている自分を周りの人はどう思っているのだろう…そろそろ、別れの時が来るのかもしれない…そう思うとネロは心にぽっかりと穴があいたような、そんな空虚な寂しい気持ちになった。この洞窟の中での日々は、ネロにとって濃密なもので、ハーフの少年と出会って、言葉を教えることを通して出来た絆のようなものは日に日に強くなっている。しかしながら、研究者であり各地を転々としながら植物を採集しデータを集めるという地味ながらも大きな仕事をしているネロは、これ以上この場所に留まっているわけにはいかなかった。ネロは心に決めた。

…今夜、少年に別れを告げて明日にはこの洞窟を出よう。

少年の献身的な看病のおかげで、ネロは常備している登山用の杖をつけばどうにか歩けるようにまで回復していた。しかしながら、ネロには一つ心配事があった。

どうやって別れを告げればいいのだろう…?

少年は言葉を未だに完全に理解しているわけではない。その少年に自分が離れていくことをどう告げればいいのだろうか…?ネロは頭を悩ませた。悩ませに悩ませて悩んだ。そして、一つの覚悟を決めた。

「お別れ」という言葉を…責任を持って自分が教えよう…。その責任が自分にはある…。

誰が見ているわけでもないが零れそうになった涙をどうにかこらえて、ネロは再び横になった。久しぶりに頭を使って疲れてしまった…。ネロは深い眠りへと落ちて行った…。

目を覚ますと洞窟の中はすっかりと夜闇に包まれていた。…が、少年はまだ帰ってきていないようだ。おかしい…いつもだったらこんなに暗くなるまで帰ってこないということはない。ネロは心配になり、火をともし、焚き火の中の薪の一本を松明のようにして右手で持ち、左手で杖をつき、ネロは歩き始めた。

なぜだろう…探しに行かなければならない…ネロはそんな気がしたのだった。

洞窟の外に出ると、そこには一本のけもの道があった。おそらく少年が毎日通っているうちに自然に出来たものなのであろう。この道を行けば間違いないと確信したネロは、杖をつきながらゆったりとした足取りでけもの道をたどった。岩場のごつごつした道で、ただでさえ非常に歩きにくいのに、足を怪我しているネロにとっては異常な通りにくさであった。

しばらく歩いていると、ネロに耳に怒号が聞こえてきた。

「お前が取ったんだろう?なぁ…?はっきり言えよ!このクズが!!!」

嫌な予感がして、ネロはその方へと歩いて行った。一軒の家の前に、丸々と太った男が立っていて、足元の小さな塊を蹴ったり棒で叩いたりしている。その塊を見て、ネロは固まった。見間違うはずもなく、その塊は自分を助けたハーフの少年であったのだ。ネロは痛む足を引きずりながらも「ちょっと待て!そいつが何をしたって言うんだ!!」と大声で叫びながら杖を捨てて駆け寄った。ネロの姿を見たその男は暴力を止め、ネロを方をキッと睨んだ。

「このチビがうちの庭の木から実を盗んだんだよ!」

そう言って、男は庭の木の方を指差してから、視線を移し、うずくまっている少年の方に落した。ネロも同じように視線を向ける。少年の周りには、いくつかの大きめな木の実が転がっている。しかしながら、ネロは気づいた。

「確かに、この少年は木の実をいくつか持っています。しかしながら、あなたの家の庭に生えているあの木になる実はない!」

そう言われて、男の表情が一瞬曇ったのをネロは見逃さなかった。

「ほら?図星だろ?この少年が持っている木の実の中にはあなたの家の庭にあるものは…」

「うるさいっっ!!!」

男は持っていた棒でネロを力いっぱい殴った。ネロは地面に崩れ落ちた。

「お前は一体何なんだ?こんなハーフのチビの肩を持って何がうれしいんだ?お前もまとめてボコボコにしてやる…」

そう言って再び男は棒を振り上げた。その時だった。

「ヤ…メロ…」

うずくまって黙っていた少年が立ち上がりながら口を開いた。

「コレ…ボク…ト…トモダ…チ…トモダチ…イタイ…イヤダ…トモダチ…イタイ…イヤダ!!」

そう言って、棒を振り上げて固まっている男とネロの間に立ち、両手を広げてまるで防壁のように立ちはだかった。男は…

「なんだお前ら…見た目も種族も年なんかも全然違うじゃねえか?それなのに友達だって?笑わせるな!!」

そう言って棒を振り下ろそうとした…が…

「なんだぁ!?」

男が棒を持ったまま動かなくなった。
よく見ると、男の周りを薄い氷の膜が包んでいる…

「い…今のは…」
ネロがそう聞くが、少年は首を横に振って遮り、
「カエロウ…イエ…カエロウ…」
と消え入りそうな、それでいて意志に満ちた、どこか誇らしげな声で言った。

ネロはあっけにとられながらも少年のその言葉を受けて、どうにか立ち上がり、痛みをこらえながら必死に、出来るだけ早く、本当に歩くくらいのスピードだが出来るだけ早く逃げた…。
けもの道を戻り、どうにか洞窟までたどり着いた。懐中電灯の光の中で、少年はにこりとネロに笑いかけ「タダイマ」と言ってネロと握手をしようとした…。だが、ネロは差し出された手を強く引っ張って、少年を自分の胸へと抱きしめた。少年は最初戸惑ってこわばっているようだったが、少しずつ緊張が解けていった。そのぶん、少年の動機が早くなっていくのが分かった。

「ネロ…ボク…トモダチ?」

少年のその言葉にネロは溢れてくる涙を止めることもせずに、抱きしめたまま首を縦に振った。

「ネロ…ナイテル…カナシイ?…ボク…ゴメンナサイ…」

尻尾を丸めた少年の悲しそうな語尾に、ネロは少年の方を真っすぐに向き直って、目を見つめながら言った。

「悲しいんじゃないよ。嬉しいんだ。嬉しいのに泣くこともあるんだ。」

少年は不思議そうな顔をしながら、それでいてまた真っすぐな笑顔で「トモダチ…ウレシイ…ボク…ウレシイ…」と言った。ネロはまた少年を抱きしめて、

「大好きだ…」と一言つぶやいた。

少年は、それを聞き逃さず、「ネロ…ダイスキ…ナニ?ダイスキ…ナニ?」と聞いてきた。
ネロは説明に困ったが、頭をひねりながら…

「友達より…もっと友達ってこと…かな?」と言った。すると少年は、

「ボク…ネロ…大好き!」

カタコトな言葉の中で、「大好き」だけがはっきりとしたアクセントと発音で聞こえた。

ネロは少年をさらにさらに強く強く強く抱きしめた…。

次の日…ネロは少年を連れて洞窟を出た。ボロボロの体、汚い恰好であったが、歩いているうちにたまたま捜索に来ていた自分の研究室の助手に落ち合った。どうやら、毎日のように捜索活動が続けられていたらしかった。助手はネロがハーフの少年を連れていることについて尋ねたが、ネロは「私の大切な人だ」とだけ言っておいた。ネロは少年にティオという名前をつけ、自分の研究所に住まわせ、研究を手伝わせた。言葉を覚えたときに分かっていたように、ティオはもともと頭がよかったので、ネロの右腕として活躍している。言語もかなり上達し、今は普通の人々と変わらないレベルで会話できるようになっている。

ちなみに、後日ネロはティオにあの時に男を凍らせた能力の正体を聞いたのだが、ティオ本人にも判らないのだそうだ。ただ、赤ん坊であったティオが泣くと真夏でも雪が空からひらひらと舞い降りることがあったということなので、おそらく感情の高ぶりとともに第五マナを自然と集結させる力がティオにはあるのだろう。

〜♪〜

「それじゃあ、行ってくるから…研究会が終わって夕方には帰るね。」

玄関で靴を穿きながら、ネロが優しく言った。

「わかった…いってらっしゃい」

ネロの言葉にどこか寂しそうに、それでいて温かくティオが返す。

靴をはいて立ち上がり、ネロが振り返って右手を差し出す。
それをティオが両手で受け取る。

その手は…今までも、今も、これからも温かい。

(つづく)

【あとがき】
 前回『晴傘』を書いてから、また機会があれば螺旋さんの世界の中で作品を書きたいと思っていて…なんとなく書いた落書きを螺旋さんに見せたらすごく気に入っていただけて、それに加筆・修正を加えて今回の作品となりました。植物学者と少年…さらに少年は言葉を話せない被差別種族ということで、やりすぎかなぁ…とも思ったんですが、書いてるうちにだんだん2人に感情移入しちゃって…ここ最近の作品では一番のお気に入りになりました。余談ですが…ネロとティオという名前は…わかる人にはわかると思います(笑)
僕の拙い駄文をお読みいただきました皆様と、素敵な世界観を産んでくださり、文章を書く機会を与えて下さった螺旋さんに深く感謝いたします。

2009.7.22 箱崎藍之介

 箱崎藍之介さんから二作目を頂きました♪言葉を無くした子が人と触れ合う事の温かさを覚えて行く…いや〜いい話ですね〜><
 さて、今回はシトロホリスと言う言葉が出てきましたね。実は軽く書いた落書きを見せて貰った時に、世界観を崩さないかって言われたのですが、個人的には全然問題ないと思ったのでそのままの形で出して頂くことになりました♪自分の小説の中にも解毒薬の素材としてバジリスクの鱗とか出してますしね^^;
 むしろ単調な言葉よりもずっといいですよね…シトロホリス…なんかカッコいい言葉でいいですよねwwそれに加えて相変わらずの情景描写の上手さ…凄すぎますね…><
 自分もこれからも頑張りたいと思います^^w素敵な話をありがとうございました♪

因みに、この文章を書いてくれた箱崎藍之介さんのサイトへはこちらからどうぞ^^w

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